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2008年7月

2008年7月31日 (木)

義母の家にメイリートとお手伝い(2)

お出かけしたり、掃除したり、食事をつくったりの日常が戻ってきました。メイリーは2日目のお昼からウンチをオシッコシートの上にちゃんとしてくれるようになりました。助かりました。
義母は、庭をとっても大切にしている人なので、自分が留守の間の一ヶ月近く、庭の木の枝や雑草が生えて荒れ果てていくのが一番気に掛かるようでした。「さつきのお礼肥に油粕をまかなくては」としきりに病院でも言っていました。義母はもともと早く起きるのでしょうが、私も朝4時30分くらいから目が覚めて、結局5時には二人とも起き出していました。義母は、支度もそこそこに庭に杖で出て、飛び出した枝やら蔦やら抜き出します。私は、暑くならないうちにメイリーをまず散歩に連れて行きました。ご近所で義母が具合が悪い時、病院に運んでくれた隣組の方がいたのですが、こちらに居る間にご挨拶する事が出来ました。ヘルパーさんや民生委員の方、月二回のお弁当を運んでくれるお兄さん、ご一緒のちぎり絵のお仲間の人達など家を訪ねてきてくださる方達にもご挨拶出来ましたが、本当に地域の皆さんに義母は助けられているのだと感じました。義母の市では、ゴミを出す時、足や体などが悪くて集積場に出しにいけない人には、特別に家の玄関の前にゴミを出しておくと持っていってくれるサービスをしてくれます。こういうキメの細かいサービスがとても助かります。
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私も庭の雑草を抜いたり、朝顔の巻く柵を作ったりしましたが、朝早くはいいのですが、日中の作業では、暑さと蚊の多さには悩まされました。隣が空き地で庭も広いせいか蛙・蛇・トカゲなどたくさん生き物がいます。どうもウシガエルもいるようなのですが、声はすれど姿は見えず・・で残念ながら写真に撮ることは出来ませんでした。蛇は小さいのですが、玄関の影で二匹ほど死んでいました。
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当たり前の事ですが、自然が多いというのは生き物も多いということなんですよね。
食事作りは、張り切っていろんな物を持っていきましたが、十分活用できたかは疑問です。でも、トマトを多く頂いたので野菜スープにしたり、余った桃をお砂糖とレモン果汁ちょっとでシロップ煮にしてヨーグルトを入れたりとちょっぴりは工夫出来たかな・・。とにかく冷凍出来るおかずやご飯を冷凍して、後で好きな時に食べて貰うようにストックしました。
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この時のメニューは、鮭のムニエル・ナスとピーマンの味噌炒め
とろろご飯・ジャガイモと玉ねぎの味噌汁でした。
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四泊五日で夜、義母の家から帰る時、家の前の外套に掛けられたお祭りの提灯に初めて灯がともりました。
ニュースをあまり見ていなかったのですが、梅雨が明けて、いよいよ本格的な夏が始まったようです。無理をしないようにして下さいと言いましたが、義母は又庭に出て手入れをしているのだろうなと思います。
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2008年7月24日 (木)

義母の家にメイリートとお手伝い(1)

義母が胆石の手術をしました。退院してから義兄宅、義弟宅に少し滞在してから義兄さんと自宅へ戻ってきました。15日から“エムズの片割れ”さんと車に荷物を詰め込み、茨城の実家へ向いました。ヘルパーさんのお仕事をするためです。もちろん、メイリーも一緒に連れて行きました。朝5時起きで、出発は7時ちょっと過ぎ、平日なので首都高の混雑が心配でしたが、9時半くらいに渋滞ナシで着くことが出来ました。心配していた義母の体調は、思ったより良いみたいです。手術の時、持病の膝関節炎が悪化していましたが、歩けるようになっていました。“エムズの片割れ”さんは、補聴器の検査や買い物に付き合った後、電車で帰りました。車は置いていってもらい、義母との外出のために使うことになっていました。一日目で困ったのは、メイリーのウンチとオシッコの場所です。二回ほどウンチをしましたが、置いたシートにはしてくれず、廊下の別の場所でしていたらしく義母と私が仲良く一回ずつ踏んづけてしまいました。まだ、色々な事にまだ慣れていないのにメイリーのウンチに悩ませられようとは、さてどうしたものかなと思いました。P10209931
車でたくさんの荷物を持って行きました。メイリーの荷物、洗濯の心配のないように寝具も出来るだけ積みました。掃除道具や、一番荷物が多かったのは料理関係でした。母の所にあるもので作ればよいのでしょうが、慣れている方が扱いやすいので圧力釜とかパイレックスのガラス容器、食材など持って行きました。車でないと出来ない事ですよね。
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ウロウロするメイリー。この後、ウンチを踏む羽目になろうとは・・。
なにしろ築50年以上の日本家屋。廊下は長く暗いところは多く
メイリーにとってくつろいでウンチ出来るところ満載です。
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すっかりお気に入りだったこの場所、二日後に大きな座椅子が来るために
撤去されてしまいました。でも・・、
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部屋の隅っこのここがあくまでも好きなメイリーです。

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2008年7月17日 (木)

映画“あの子をさがして(一个都不能少)を見る

中国語の教室で、先生お勧めの「あの子をさがして」を見ました。1999年製作なので今の中国の農村の状態がそのまま舞台になっています。

この映画は、1999年のベネチア映画祭金獅子賞を受賞しています。
貧しい農村の小学校に赤いほっぺをした13歳のミンジ(ウェイ・ミンジ・本名)が代用教員として赴任してきます。ミンジは村長から、病気のお母さんを見舞いに行く本当の小学校の先生・ウェイ先生の代わりに子どもたちをちゃんと見て、一ヶ月生徒を1人も減らすことがなくみられたら50元の給料をやると言われていました。ところが病気の母を持つ、いたずらっ子のホエクー(チャン・ホエクー・本名)が出稼ぎのため街へ行ってしまいます。ミンジは生徒と共に強引にお金を作りホエクーを探しに街へ出かけます。ところがホエクーは、一緒に出稼ぎに行った同じ村の少女とはぐれ、行方不明になっていました。ホエクーを探して何の手蔓もお金もないミンジの生徒探しが始まります。

ミンジの赤いほっぺと、ほとんど笑わない表情に農村の今置かれている厳しさを感じます。この物語はハッピーエンドで結局のところホエクーとミンジは再会出来、貧しい学校にも寄付金が寄せられます。映画の冒頭で病気のお母さんを見舞いに行くウェイ先生も給料を半年も貰っていなくて、チョーク一つ無駄に出来ず、50年近く修理も出来ない学校の実情が出てきます。生徒達も幼くして働き手として出稼ぎに行かなくてはならないほど家庭はどこも経済的に苦しい状態です。ミンジも最初は投げやりな様子で、生徒達の意見を聞かず強引にお金を集めさせようとしますが、ホエクーを探していくうちに少しずつ先生らしくなっていっているように感じました。どこを見ても貧しい農村と発展する都会とがはっきり対比されて出てきますが、不思議に悲惨さはありません。そこが中国の人達のたくましさなのでしょうか。この映画を紹介してくれた先生は、ホエクーという腕白少年の表情が実に可愛らしいと言っていましたが、本当にホエクーは昭和の日本によく居た少年だと思います。表情が豊かで笑うとクチャクチャな顔になり、それでいて頑固なところがあり、すぐ悪戯をする元気な少年。強引で無謀な行動を取っているように見えたミンジでしたが、学校に寄付が寄せられたと言うことよりも、色んな色のチョークを貰ったと言う事がなによりも嬉しいことだった様です。「ウェイ先生が喜ぶね」と言いながら、色々な色のチョークを大切に使って、黒板に1人一文字ずつ書くミンジや生徒達は、誰よりも素朴で実直なのではないかと思いました。
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2008年7月10日 (木)

槿(むくげ)の花

槿の花があちらこちらで咲き出しました。二つ隣のお家から頂いた槿が我が家にもあります。家の庭にあるのは薄いピンクの花です。一年前に咲いた時は、何も考えずにこの花を見ていた気がします。
先日、長く闘病生活を送っていた友人が他界しました。50代半ばで亡くなった彼女の人生をなんと表現したら良いのでしょうか。「槿花一朝の夢」というのに出会ったのはつい最近です。槿が朝方咲いて、夕方にはその花を巻いて閉じてしまうという一日花だったのをその時知りました。人の世のはかない例えに使われるようです。でも、枝を切って地面に刺しておくと根づく 強さも持っています。
彼女は、私が大変な時にいつも駆けつけてくれた人でした。
最初は30年近くも前の話ですが、上の子が急病で入院した時に見舞いに来てくれました。でもその時は、あまりの重篤な状態に気持ちが動転していて、ちゃんと対応出来たのか、あまり覚えていません。
二回目は9年前、私が足の手術をした時でした。心配するからと電話もあまりしない様にしていたのですが、勘の鋭い彼女は夫に電話をして、透析している体を押して遠くからお見舞いに来てくれました。「大丈夫なの?」と心配してくれたのですが、とても辛そうでした。「ちょっと休ませてくれる?」と彼女が言い出すのは初めての事でした。とにかくベットで横になってもらい話しをした事がありました。その日、彼女がどんな大変な思いをして家まで帰ったかを考えると辛くなります。
芯が強くて頑張り屋さんだった彼女。でも、20年に及ぶ闘病と新たな病気を抱え、手術とガンの治療ですっかり痩せた彼女に、「頑張れ」という事は出来ませんでした。
絵を私が描き、母が字を書いた槿の花です。
強くて、はかないあなたの様な花ですよ。(合掌)

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2008年7月 4日 (金)

グループホームの火災、その後

障害者の方が7人で住む、グループホームで火災があり3人が死亡、1人が重傷という痛ましい事件が起こりました。以下は新聞の抜粋です。

障害者施設で火災 3人死亡、宿直不在/神奈川・綾瀬」(読売新聞2008/6/2)
2日午前2時30分ごろ、神奈川県綾瀬市寺尾北、知的障害者のグループホーム「ハイムひまわり」から出火、木造2階建ての同ホーム315平方メートルを全焼、隣接する民家1棟も焼き、約5時間後に鎮火した。同ホームの焼け跡から入所者7人のうち、男女3人が遺体で見つかった。ほかに1人が重傷。・・・・
火災当時、同ホームには7人全員がいたが、1階の2人と2階の1人は逃げて無事だった。・・・
運営する社会福祉法人聖音会などによると、「ハイムひまわり」は1994年8月に開所。計8部屋あり、51歳~69歳の軽度の知的障害者が入所していた。男性3人、女性4人で、綾瀬市や近隣市町の人という。入所者は、平日の日中に仕事や作業などで外出する以外は、同ホームで過ごしていた。普段は職員1人が1階の管理人室で夜間の宿直にあたるが、1日夜からは休暇をとって旅行中だったため、不在だった。
同ホームには火災報知機やスプリンクラーは設置されていなかったという。県によると、障害者向けのグループホームの人員配置は厚生労働省令で定めており、宿直はサービスで義務にはなっていない。・・」

この火災についてある冊子にこんな意見がありました。書いているのは松友 了さんという全日本手をつなぐ育成会常務理事をしている方で、その方のご意見を抜粋したものです。尚、原因は今のところ放火という疑いが強いそうです。

「まず初めに、3人のご冥福とお怪我の一日も早い回復をお祈り申し上げます。
報道の視点は、「防火装備が不十分」であり、消防庁は施設としての設置義務があったと指摘している、という方向が強まっています。犠牲者の事実に即して、管理者の責任を問う、いやそもそもグループホームが心配だ、という流れです。
 「安心・安全」を願うことは当然です。そのために、万全の策が考慮されるのは理解できることであり、期待されるものです。しかし、それだけで良いのでしょうか。真綿で包み、箱入りの状態であれば、少なくとも「豊かな」人生は望めません。
 米国で始まった自立生活(Independent Living / IL)運動の主旨の一つに「リスク(危険性)の享受」というものがあり、深く感動したことを思い出します。人間らしい生き方には危険がつきものであるが、それを恐れてはいけなというものです。
 求められているのは、豊かな人間らしい暮らしであり、それを安全に保障する必要があります。
不幸な火災に乗じて、入居施設への後戻りを示唆することは、文字通りの「火事場どろぼう」の理論であり、決して許されることではありません。」

この火災で相模原市消防局は5日、2日未明に綾瀬市内で発生した障害者グループホームの火災を受け、相模原市内のグループホーム62カ所に立ち入り調査を始め、消防設備を確認したそうです。
もちろん安全・設備の確認は必要なことですが、どうも一番手の付けやすいところから始めて、論点を摩り替えてしまうような気がします。
グループホームやケアハウスに住み、地域で暮らし、自立して行こうという障害者にとってますます道を閉ざしていく方向に行ってしまうのはなぜでしょう。隔離して生活していれば本当に安全なのでしょうか。それでなくても経営の苦しい施設にますますの負担を強いる事だけが公共のやるべきことなのでしょうか。みんなで知恵を出し合う工夫をしていくことが大切なのでしょうが、こんな方向だけが解決だとしたらますます“日本は住みにくい、生きにくい”場所になるのだと思います。そして、結局原点を見据えない解決だけだとすると障害を持っている人たちだけではなく、すべての人にとって“日本は住みにくい、生きにくい”場所になっていくのだと思います。

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